重たい瞼を開くと、白い何かが見えた。
 
「にゃあ」
「………ユ、キ?」
 
つい最近拾ってきた子猫が、自分の瞳を覗き込んでいる。
そのままざらつく舌で頬を舐めてきたので、無意識にその体を撫でていた。
ごろごろと体にじゃれつく子猫、ユキをぼんやりした頭で見つめながら
俺はどうなったんだろうと思考を巡らせる
 
確か、小さな酒場で飲んでいた。
…酒は得意じゃないが、何となく…気分がもやもやしていて、酒場に入った。
そうしていたら、いきなり酔っ払った知合いに捕まり、「ノリが悪い」だとかで酒瓶を口に突っ込まれた。
それからは………よく、覚えていない。
思い出そうと頭を働かせようとするとズキズキと激しい頭痛。
しかし、口の中に広がる何とも言えない違和感は覚えがあった。
(……吐いたな、俺)
誰かに迷惑をかけてないといいが。
…いや、それより俺はこの家にどうやって戻ってきたんやろ……?
 
じゃれついていたユキが、襖の音に反応して背中を向けた。
横になったままの体で見上げると、そこには軽薄な笑み。
 
「やあ、起きた?」
 
由樹の思考が全停止した。
 
「っい…!!」
「そんな急に動くから」
 
無意識に逃げようと、その場から飛び起きた由樹に頭痛が襲う。
顔を歪めて頭を抱える由樹に、清顕の苦笑が聞こえた。
大丈夫?と差し伸べられた手を避けて、由樹は清顕を睨みつける。
 
「な、なんでお前がここにおんのやっ…」
「覚えてないの? ここまで由樹さんを運んできたの、俺なんだけど」
「……は?」
 
由樹の眉間の皺が一層に深くなった。
運んできた?千代田が?俺を?
痛む頭を押さえて思い出そうとしても、何処にもそんな記憶はない。
そんな由樹の様子を見て、おかしそうに清顕は笑う。
そして笑いながらも、今までに至る経緯を掻い摘んで由樹に伝えた。
 
「由樹さん、相当出来上がってたからね。覚えてなくても無理はないと思うよ」
 
そう言いながら、くすくすと楽しそうに清顕は笑う。
いったい何がそんなにおかしいのか、と由樹は顔を顰める。
 
(あのおっさん…よりにもよって何でこいつに…)
 
頭痛のする頭を押さえて、鎧姿の男を頭に浮かべる。
彼に恨みを抱くのは違うとは分かっているが、清顕に己の介抱を頼んだ事を考えると
文句の一つも言いたくなる。
そうやって悶々と思考する由樹の足にユキが体をすり寄せてくる
 
「…すまんかった。迷惑、かけたな」
「別に、急ぐ用事もなかったし。…普段は見れない由樹さんが見れたしね」
 
…一言余計や
しかし、楽しそうに笑う彼の言葉にいちいち反抗する体力は由樹には残っていなかった。
すり寄ってくるユキを撫でる余裕すら、今はない。
 
「大丈夫?顔色、悪そうだけど。水なら汲んでくるよ。」
 
由樹さんはそこで寝てて。と優しい笑みを浮かべ、台所へと消える清顕。
制止も間に合わず…その背中を見て由樹は溜息をつく。
 
「なぁん」
「…あぁ、大丈夫や」
 
心配そうに、ユキのつぶらな瞳が由樹を見ていた。
苦笑しながらその喉をくすぐると、気持良さそうにごろごろと喉を鳴らす。
顔色が悪いのは、酒のせいだけでない。
あの男を顔を合わせているからだ。
(早く…早く、あいつから離れないと)
 
「由樹さん」
 
見上げると、水の入った湯呑を持って清顕は立っていた。
素直に受け取り、水を流し込む。水は喉を潤し、疲れた体によく染み渡った。
一つ息をつく由樹に「少しは落ち着いた?」といつも通りの笑みを浮かべる清顕。
 
「…千代田」
「うん?」
「…俺はもう、大丈夫やから。せやからもう帰っても…」
「嫌だよ」
 
胡座をかき、笑顔で清顕は由樹の言葉を一言で否定した。
悪意なんてまるでない。それが当然だと言わんばかりの清清しい笑み。
清顕と視線を合わせないよう俯いていた由樹が思わず顔を上げた
嫌な汗が流れる。
 
「まだ、答え聞いてないから」
 
瞬間、後ずさろうとした由樹の腕は清顕の手に掴まれていた。
爽やかな顔に似合わず、骨が軋むほどの強い力。
わずかに由樹は顔を歪ませる。
 
「今度は、逃がしてあげないよ」
 
いつもの笑顔のまま、清顕は由樹に近づいてくる。
由樹は逃れようと腕を引っ張るが…微塵も動かない。
 
「離、せっ…!」
 
ぎり、と歯を食いしばり由樹は清顕を睨みつける。
今の清顕には恐怖すら覚えた。…それを押し隠し、由樹は抵抗する。
しかし、清顕の顔は変わらない。腕を掴んだまま、由樹に体を近づける。
 
「俺は由樹さんの事が好きだ」
 
離せと言おうとした由樹の体が固まる。
「あの時の顔」だ。
初めて告白された時の、あの瞳……
 
「由樹さんが欲しい。…こんなに誰かを欲しいと思うなんて、由樹さんが初めてなんだ」
 
清顕は由樹を見つめたまま、その手を取って己の頬へと寄せる。
蛇に睨まれたように由樹の体は動かない。
逃げ出したいはずなのに、その瞳から逃げることができない。
 
「自分でもおかしいと思うくらいに真剣なんだ。ねえ、由樹さん」
 
清顕の頬に触れた手から、体温が伝わってくる。
温もりを感じて、ビクリと体が震えた。
暖かい、けれどそれが、恐ろしく感じた。
(逃げない…と…早く…)
 
「由樹さんは俺のこと好き?それとも嫌い?
 …はっきり言ってくれないと俺は由樹さんを諦める事も、離れる事もできないよ」
 
逃げないと、早く。この男から
 
早く。早く。早く。早く。
 
妙な焦燥感が由樹を襲う。
どうしてこんなにこの男が恐ろしく感じてしまうのか。
どうしてこんなにこの男から逃げなければと思ってしまうのか
由樹自身、よく分からない感情だった。
 
それを考えている余裕もない。
とにかく逃げないと、早く。
こいつの居ない所へ。どこでもいい、どこか遠くへ。
これ以上、こいつの瞳を見てはいけない…!!
 
金縛りにあったように動けなかった由樹は、僅かに清顕から視線を下へ逸らした。
苦し紛れだった。こうしてもいずれは清顕の瞳にまた捕まってしまう。
そうなる前にこの状況を何とかしなければ………
 
(………ぁ……)

気付いた。
今まで気付かなかった事が、おかしかった。
両親の写真が入った古いロケットペンダント。
両親の姿を忘れないようにと祖母がくれたものだった。
己を捨てた親に何の想いも沸かない。
しかし祖母がくれたそのペンダントは、祖母の死後、由樹にとっては心の支えだった。
 
そのペンダントが、いつも首にかけていたものが、無くなっていた。
 
「……よ、由樹、さん?」
 
清顕は思わずたじろいだ。
由樹の眦から、突然に涙が溢れ出したからだ。
 
何が起こったのか分からなかった。
清顕は由樹を泣かせるほどに追いつめた自覚はなく、
由樹がそう簡単に泣く人間だとも思っていない。
 
「おれ、は、」
 
ボロボロと由樹の頬に大粒の涙が零れる。
感情を出すことが苦手だったはずなのに、今はその感情を抑えることが出来ない
感情がそのまま顔に、言葉に出る。止められない。
 
「俺は……俺はっ…!」
 
俯いたまま、由樹は叫んでいた。
 
「俺は!!誰も好きになんかならん!!」」
 
清顕の目が見開いた。
由樹が叫んだ言葉の意味が、清顕にはよく分からなかった。
 
「…好きになる資格…なんか…っ…!」
 
ただ、分かったのは
目の前の愛しい人が、とても辛そうで苦しそうな顔をしていた事だけだ。
…いつも清顕の姿を見ると、彼は怒ったような苦しそうな顔を何度か見せていたが
彼なりの「照れ隠し」だと清顕は思っていた。
…今の今まで。
 
「由樹…さん…」
 
彼が叫んだ言葉の意味はよく分からない。
けど、もし僕が彼を本当に悲しませてしまっているのなら
 
「……ごめん……」
 
清顕の腕の力が緩んだと思えば、拘束は消えていた。
その清顕の手が由樹の髪を撫でて、小さく囁くように言った。
 
その声が悲しそうだと、由樹は思った。
顔を上げて清顕の顔を見ても、涙でぼやけた目ではよく分からない。
 
「ちよ…」
 
由樹のただならぬ声を聞いて、ユキがなぁんと不安そうに鳴いた。
無意識に由樹はユキのほうを見る。
泣き顔を見られては、と服で拭ってふと正面を見ると
 
清顕の姿はもうそこにはなかった。

next…

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